2015年08月14日

型にはめる教育(後編)

前篇はこちら。
(以下は、2005年に別のブログに書いたものを加筆・修正した文章です。)

 子供にも個性があり、それは教育によって大事に伸ばしてやるべきであり、型にはめる教育は良くない……という考えに、かつては私も“汚染”されていた。

 だから教育に携わるようになった当初は、どこまでこちらの言う事を聞かせるべきなのか、ずいぶん迷ったものだった。今は、吹っ切れている。誤解を恐れずに言えば、「教育でつぶれちまう程度の個性なら、つぶしておけ」。もともと個性は、教育で伸ばせるものではない。

 教育(特に、幼児教育・初等教育)とは、子供に世の中の約束事を仕込み、社会生活で困らないようにしてやる事、そしてそれによって自立を促す事(“世の中の約束事”に、そう書いた)である。また、文明社会に調和をもたらし、秩序を保つ為の事業(“文明人”に書いた事を要約すれば、こうなる)でもある。
 すると、教育によって子供達が伸ばすべきものは、明らかに“共通性”だ。個性とは、正反対である。

 個性は、心配しなくても誰もが備えている。それを伸ばしたければ、勝手に(自力で)伸ばす他ない。何故なら、個性は他人と共有できないからこそ個性なのであって、これを他人の力を借りる事によって、つまり教育によって伸ばすなど、出来る訳がないからである。
 もし、誰かに教育される事によって個性を伸ばす事に成功した(気がする)ならば、それは実は、その“誰か”との“共通性”が増したのである。個性は伸びていない。ただし、何かしら能力に磨きが掛かったであろうから、悪い結果ではない。教育は成功している。

 ひょっとすると、私は個性を軽んじている人間だと思われてしまっただろうか。
 もしそうなら、心外だ。
 私は、社会には多様性が必要であると思っていて、他者の個性に対して柔軟に対応できるようでありたいと思っている。ただ、ここで私が主張しているのは、個性を伸ばす事は教育の役割ではない、という事に過ぎない。
 ついでに言えば、社会には多様性と同時に共通性が無くてはならず、これらのうち、共通性を確立させるのが教育の役割である。個性を大事にするかしないかは、一人々々の他者に対する態度の問題であって、教育それ自体の問題ではない。
 なお、他者に安易に個性を求める事は、避けなければならない(との旨“個性的な表現”に書いた)。



 蛇足ながら…
 “話の聴きかた”に書いた通りだが、誰かの言う事を100%理解するなんて、まず不可能である。だから、百歩譲って教育が子供を型にはめる悪事だとしても、別に心配は要るまい。

posted by 松尾宗弘 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事 | 更新情報をチェックする
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