2021年06月07日

歴史を学ぶ理由

やじろべえsq-s.jpg
今朝(R3-6-7)の新聞で「やじろべえ」に関する記事を見た。
「やじろべえ」自体は、若い人が知らなくても構わない、と思う。
私にとって気になったのは、就実大教授の福井広和氏の話だ。
「遊びが視聴覚中心」である事、そして「その他の感覚で遊ぶ経験が乏しい」事を、福井氏は指摘する。
今の子供たちの育ち方を危惧している模様。
私も、危惧している。それは、もう二十年来の危惧だ。2004年にブログを始めたとき、最初に投稿した文章を、ここに載せておく。

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 学校でコンピューター教育を始める、と聞いたとき、私は、コンピューターの作動原理などを教えるようになるのかと思った。
 始まってみると、全然違う。
 ただ、ソフトを起動して使っているだけ。中高生は、二進数すら知らない。

 これに、どれほどの意味があるのだろう。ハードやソフトの「使い方」なら、私(昭和四十年代生まれ)の世代は学校では何も教わっていない。しかし今、一番コンピューターを活用している世代であるはずだ。だから、「使い方」を学校で教える必要があるとは、とても思えないのである。
 だいたい、操作なんてどうせ変わる。そんな事を教えている時間があるのなら、もっと根本から知能を鍛えるような授業を考えたほうが良いと思う。
 特に小学校でのコンピューター教育など、愚の骨頂と言ったら言い過ぎだろうか。コンピューターは、紙のもの(書物・ノート・鉛筆等)が発達し、電算処理に置き換わったものに過ぎないではないか。紙のものを活用できない人が、どうやってコンピューターを活用できると言うのだろう。

 コンピューターに限らず、私はこう思う。
 心身ともに未発達な子供には、原始的な道具が似合う。心身の発達に応じて、発達した道具を使わせるようにするべきである、と。
 どんな道具も徐々に発達して来た訳だが、子供はその過程を追体験すべきである、という事である。それをせずに最先端の道具に触れた子は、おそらく、誤解・無理解・消化不良を起こすであろう。
 そんな事はない、とするならば、我々は何故、歴史を学ぶのであろうか?

posted by 松尾宗弘 at 13:09| Comment(0) | 仕事 | 更新情報をチェックする
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